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- Date:2025年01月03日
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ざわめきが薫の中に、まだ残っていた。
これを、幸せのざわめき、というのだろうか。
一日中、自分の意思などおかまいなしに時間が過ぎ、周りに言われるがままに、着替え、食事を取り、座り、立つ。
隣に座る剣心を見れば、これまた同じように、戸惑った表情で慣れない格好に身を持て余しながら、しきりに視線をあちこちに泳がせている。
自分の家が自分の家でないような
自分の居場所がないような
そんな気分にもなるほど、剣心も薫も己のおかれた立場に困惑していた。
「ええお式やった」
妙の言葉に、薫ははっと我に返った。
前掛けで簡単に濡れた手を拭き、歩きながらそれを外して「ふう」と一つ大きなため息をつくと、卓袱台の前に腰を降ろした。
その動作を見届けて、薫は改めて居ずまいを正した。
「妙さん、今日は本当にありがとうございました」
深々と頭を下げて、心からの礼を言う。
「おかげで滞りなく祝言をあげることができました。妙さんがいなかったら、私も剣心もどうしていいのかわからなかったわ」
「いややなぁ、改まって」
妙は無邪気に笑うと、湯飲みに茶を淹れ、薫と自分の前に置いた。
「でも、ほんま、おめでとうさん。よかったなぁ」
妙は感慨深げに薫の顔を見た。うっすらと化粧を施した新妻が、あまりに初々しい。
今日、皆の祝福を受け、神谷薫は晴れて緋村剣心の妻となった。前川道場の師範夫婦を仲人に、二人の縁者が心から彼らの幸せを願った。
決して順調ではなかった。誰もがこの二人の幸せを願いながらも、誰もが一時はその幸せを諦めたのだ。
一番傍で二人の成り行きを見守っていた妙にとって、今日の良き日は、誰よりも喜ばしい日でもある。
「剣心はん、なんや、お式の間中もぞもぞしはって、傍から見てたらおかしゅうて」
客人を外まで見送っている剣心の顔を思い浮かべ、くすくすと笑って改めて薫を見る。
「幸せに、なり。あんたは、だれよりも幸せにならんとな。もう、二度と剣心はんの手ぇ、離したらあかんよ?ええな?」
妙の心からの言葉を、薫は真摯な気持で受け止めた。
「ありがとう。」
もう少しゆっくりしていって、という剣心と薫の声を、妙は軽く受け流す。
「新婚はんの大事な初夜に、長居するほどうちはいけずやあらへんよ」
頬を染める二人の前で、カラカラと大声で笑う。
「ほな、また。お疲れさんどした。今日は、ごゆっくり」
巾着を片手に、妙は足取り軽く帰って行った。
夜は静かに更けていく。
風が、隙間風となって廊下に吹き込んだ。
薄暗い中、寝室の障子を開けようとして、ふと手を止めた。
そうだ…私たち、祝言をあげたのだ。
薫の脳裏に、つい先ほどまで客間で執り行われた祝言の様子が浮かんだ。
お式の最中は、何も考えられなかったけれど…障子に添えた手がこころなしか震えている。
私、剣心のお嫁さんになったんだ…そして…そして…
薫の心臓が早鐘のように鳴っている。
この障子を開ければ、既に床に入ったであろう夫が、自分を待っている。
夫婦の契りをかわすことがどんなことなのか、男女の機微に疎い薫にとってはなす術も無い。
得もいわれぬ緊張が、薫の体を突き抜けた。こんなことなら妙さんにもっといてもらえばよかった…薫は目を伏せ、唇を噛んだ。
どんな顔をして、入ればいいのだろう。何を話したらいいのだろう。薫が半ば困り顔で小さなため息をついた時、目の前の障子がするりと開いた。
「風邪を…ひくでござるよ」
行灯の灯りだけが灯る薄闇の中、夫となった剣心が優しい眼差しを新妻に向けて立っていた。
「どうしたでござる」
目の前にしゃがみ、自分を気遣う剣心の声が、あまりに優しくて、薫は思わず泣きそうな気分になった。
「あ、あの…何でもないの、ごめんなさい。」
しどろもどろに答えながら、ふと剣心の顔を見たとき、薫の心臓が大きく跳ね上がった。
薄闇に微笑む剣心は、薫が今までに感じたことの無い男の香を漂わせていた。夜着の袷がはだけて、厚い胸板が見え隠れしている。今までに剣心を、これほどまでに男として、意識したことがあっただろうか
いつもと同じ人なのに、なぜ、今宵はこんなにも違うのだろう…
「風邪をひくでござる。さあ、中へ」
剣心に促されて寝室に入った薫の目に、並んで敷かれた二つの布団と箱枕が映った。
「あの、剣心、私、やっぱり…」
どうしていいかわからず目を逸らす。
ふと、このままどこかへ逃げ出したい感情に襲われた。
薫がわずかにあとずさりをした時、剣心の手が薫の腕を掴んだ。
「薫殿…」
「剣心…」
「拙者が、怖いでござるか?」
剣心の問いに、薫は慌てて首を横に振った。
「違う…そうじゃないの…」
薫はその場に座り込み、高鳴る胸を両手で押さえた。
「ごめんなさい。あなたのお嫁さんになったのに…すごく嬉しくてたまらないのに、どうしていいかわからなくて…」
子供みたいで、ごめんなさい。薫はそう言って剣心の前でうな垂れた。
今にも泣きそうな薫の頬を、剣心の両の手が優しく包み込む。
「すまぬ。薫殿…怖がらせてしまったようだ」
薫の体を引き寄せて、まるで赤子をなだめるように肩をやさしく撫でている。
「薫殿…こんなことを言ったら誤解されるやも知れぬが…拙者も男ゆえ、薫殿を抱きたいと思っている。」
あまりに唐突なその言葉に、薫は顔を真っ赤にして俯いた。まさか、剣心の口からそのような言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
「薫殿。男がおなごを、そしておなごが男を求めるのは、何の不思議もない。人間ならば、ましてや夫婦になったのならば、それは自然の感情でござる。」
剣心は俯く薫の顔をついと上げた。
「こうして、肌と肌をあわせると、こんなにも温かい。そうではござらんか?」
触れている部分――それは腕であったり、肩であったり――から、やんわりとしたぬくもりが伝わってくる。
薫の全てを包み込むような、やわらかで温かなぬくもりだ。あれほど高鳴っていた動悸が治まり、薫の緊張が少しずつほぐれていく。
「拙者は、今日、祝言の間中、人の縁(えにし)の不思議さを、つくづく感じていたでござるよ」
「人の…縁…?」
「そうでござる。拙者と薫殿。あの月夜の晩、ほんの小さな偶然の出会いが、めぐりめぐってこうして互いの伴侶としてここに存在している。拙者と薫殿は、目に見えない糸で繋がるように出来ていたのかと思うと、縁というものはなんと不思議だと思うのでござる。一度は失いかけたその糸を、拙者はこれからもずっと…一生、大切にしたいと思っているでござる」
自分の言葉に照れたのか、剣心は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ははは…格好つけすぎでござったかな」
「剣心」
薫は剣心の体から自分の身を起こすと、居ずまいを正し夫の顔をしっかりと見つめた。
もう、先ほどまでの緊張は失せている。
「本当に、本当に、何も出来ない不束な嫁ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
三つ指を付き、深々と頭を下げた。
「あなたの妻になれて、私は世界一の幸せ者です」
恥ずかしそうに微笑んだとき、剣心の両手が薫の体を再び抱きしめた。
「薫…」
力強く抱きしめられ、髪を撫でられた。愛しそうに頬擦りをされたとき、ざらりとした感触が薫の頬に残った。それが、夜になってうっすらと伸びた髭だとわかったとき、薫は剣心を紛れもない大人の男として意識した。再び胸の鼓動が早鐘のように鳴り始める。
だが、もう躊躇わなかった。
いや、それどころか、己の身を全てこの男に委ねたい、と思った。